早速授業が始まった。研修生はぬくぬくと来ている。
いっぱいもらった風邪薬
その夜は22℃もあるのになぜ寒いのだろうと思いながら、ゾクゾクしてなかなか寝付けなかった。
そのまま、うつらうつらとして、朝を迎えた。 のどが痛かった。昨日は冬物のジャンバーで過ごしたものの、今日は会社の主だった人にあいさつに 行くかもしれないのでスーツを着て行くことにした。
上からジャンバーを羽織り、出かけた。ダウンのジャケットもあったが、あんまりだろうと思い 置いていった。やっぱりゾクゾクし、鼻水も出始めた。
そんな様子を見てセンター主任が風邪薬を山のように買ってきてくれた。
漢方あり、西洋薬あり、のど飴あり。うがい薬ありで、「こんなにたくさん要りませんよ。」と言ったものの全部もらった。
すぐ治るはずだった。いや、治らなければならないと思っていた。
しかし、授業を終えて部屋に帰っても寒い。その日は夕食を食べてすぐに寝た。
奇しくも授業では「のど、アーンして」の授業
翌日は熱があった。
少し、ボーッとしている。でも、今日金曜日をがんばれば土日休みなので、何とかなるだろう、とセンターへ出て行った。
センターの教官室は私の部屋より暖かかった。見ると、エアコンは30℃に設定してある。
「えっ、30℃だったら真夏の温度じゃないか。」と思ったが、現実にそうしないと部屋は暖まらないらしい。きっと、中国のエアコンの温度表示は希望値であって、
その温度になりますというものではないらしい。私の部屋のエアコンは22℃に設定しているが いま、思えば、10℃にも満たない室温だったのだろう。どうして、初めから30℃にしなかったのだろうと悔やまれた。
主任から、日本に留学したことのあるいいお医者さんを知っているので連れて行こうと言われたが、エアコンを30℃にして、この土日で、しっかり治しますから大丈夫ですと、断った。
保険にも入っているし、会社からも病気は診てくれるようになっているので、頼めばよかったと後で思った。
このころから「やけに寒いな。なんだか変だぞ。」と、思っていた。
でも、初めて来た者にはこれが当たり前だと、思わざるを得ない。
布団に入ってからも色々考えた。
そして、不屈の前畑さんが「中国で一番寒くて、しかも、暑いところは長江の南あたりだ。」と言っていたのを思い出した。
長江の南というのはまさに南昌、このあたりだ。
冬は暖房設備がなくて寒いし、夏は内陸性気候で、昼間の気温が上がるからだという。
暖房設備がないわけではないが、アパートのこの部屋では最高設定温度の30℃にしてもあんまり 効果はない。
ここよりうんと寒い華北省の滄州では外はマイナス15℃なのに部屋に入るとポッカポッカの暖かさだった。しかし、ここでは外から部屋に入っても、その暖かさ感がない。仕方なく、出かけるときも暖房をつけっぱなしにすることにした。
しかし、その結果、1ヶ月後には500元あまりの光熱費を請求されることになった。光熱費はセンター持ちだ。これは普通の家の5倍ぐらいの光熱費だと言われた。
申し訳ないので光熱費は私が出してもいい、と言ったが、契約にそううたってあるので、それはいけないと、出させてもらえなかった。こんなこともあるので、100元ぐらいを光熱費分として頂いて、オーバーした分はこちら払いとすると心おきなく使えると思う。
私は家では冷暖房については節約派で、元々私の家にはエアコンさえ設置していないぐらいだ。今年の南昌の場合は特別の寒さだったということがその後、分かった。
一般の中国人にとっては100元札が
日本人の5000円札か10000円札の感覚に当たるようだ。
布団に入ってからも色々考えた。
その中で不屈の前畑さんが「中国で一番寒くて、しかも、暑いところは長江の南あたりだ。」と言っていた のを思い出した。
長江の南というのはまさに南昌、このあたりだ。
冬は暖房設備がなくて寒いし、夏は内陸性気候で、昼間の気温が上がるからだという。暖房設備がないわけではないが、アパートのこの部屋では30℃に設定してもあんまり効果はない。
ここよりうんと寒い華北省の滄州では外はマイナス15℃なのに部屋に入るとポッカポッカの暖かさだった。しかし、ここでは外から部屋に入っても、そのポッカポッカ感がない。仕方なく、出かけるときも暖房をつけっぱなしにすることにした。
しかし、その結果、1ヶ月後には500元あまりの光熱費を請求されることになった。光熱費はセンター持ちだから、出してもらったが、これは普通の家の5倍ぐらいの光熱費だと言われた。
大変申し訳ないので「光熱費は私が出します。」と、言った。ただ、契約にうたってあるので、そう言うわけにはいかないと言われた。
こんなこともあるので、100元ぐらいを光熱費分として頂いて、オーバーした分はこちら払いとすると心置きなく使えると思う。
私は元来光熱費については節約家だ。私の家にはエアコンさえ設置していない。
それで、何とか過ごせるからなのだが………。
今年の南昌の場合は特別に寒いのだと言うことがその後、分かった。
市民の大半が住むアパートの様子。
屋上は凍りついているが、夏になれば猛烈に暑いのだ。
中国はどこも雑然としていると感じるが、下のカイロの写真に比べると
ずいぶん整然としている文明国だ。
カイロの建物の屋上はひどい。
暑さしのぎだけではなく、まだ、工事中のように装うのだそうだ。
真偽はともかく、屋根がある家は税金が高いからだとか。
不屈の前畑さんが言った言葉の続きは南昌のこのあたりでは「夏は電線の雀が暑くて落ちるぐらいだ。」だった。
冬はこんなに寒いのに、夏はそんなに暑くなるのかと、信じられないほどだ。しかし、雀の話は大げさだが、暑いのは確からしい。
私を紹介してくれた神戸さんは夏の真っ盛りに南昌で過ごしたが、それはそれはとてもじゃなかったという。 「日本人の先生は暑いときや寒いときばっかり来ますねえ。」と黄先生は言った。今年の冬は黄先生が今までに経験したことがないほど寒いそうだ。
南昌の夏は本当に暑いのだと、うかがわせるものがある。
街の中国人達はほとんど、6階建てのアパートに住んでいる。どうして、6階建てかというと、それ以上はエレベーターを設置しなければならないからだそうだ。
そして、そのアパートの屋上には色々な物が置いてある。
中でも、屋上の床との間を透かして並べておかれたコンクリートパネル、これは明らかに暑さしのぎだ。そのほか、煉瓦片やがらくたなども少しでも太陽の直射からの熱をふせぐためにわざと置いたものに違いない。
ちなみにアパートは6階の家賃が一番安いという。
私は以前エジプトのカイロに行ったことがあるが、そのときも屋上にあるとあらゆる物が置いてあるのを 見たことがある。雑然として美観を損ねるが、暑さをしのぐための一つの方法なのだろう。
鍵を折り込ませてしまったドア。
恥かしい話だが、金曜日、センターからの電話で起こされた。実は、朝早く起きていたのだが、熱が下がらず、ゾクゾクするので、出勤の準備をして、そのまま、布団に潜り込んでいたのだ。電話の5分後にはセンターに着いた。先生たちからは休めばよかったのに、といわれたのだが、そういうわけにはいかない。
午後4時過ぎ、部屋に帰ってから、月曜日までには絶対に治すつもりで、薬を飲み、いっぱい着込んで、ベッドに寝た。
汗が出るほど暖まれば熱も引くと思ったが、なかなか身体が温まらない。
食事は会社の食堂に行かなければならないので、夕方5時半に起きて行った。帰ってきて部屋に入ろうとすると、なかなかドアの鍵が開かない。中国の鍵はどこも固いので、いつものように思い切って力を入れて回したら、ポロリと折れてしまった。そして、先は鍵穴の中に詰まってしまった。
廊下は薄暗く寒かった。どうしようかと思い、黄先生に電話をしたら、まだ会社にいたらしく、すぐに来てくれた。
私にはよく見えなかったが、黄先生は鍵穴を覗くなり、「なあに、これは事務所の鍵じゃないの。」と、言った。
熱のため思考力も判断力もなくなっていたのだろう。事務所の細い鍵で、無理に入り口のドアを開けようとしたのだ。
折れた鍵の先はなんなくとれたのでよかった。
ここはオートロックなので、詰め出されないように、出るときにはいつも鍵を持っているかを確認するようにしていたのだが………。こんなことがあろうとは思わなかった。
その日は風邪ボケでトホホの1日だった。
センターの門は閉まり、閑散としていた。日曜日だったのだ。
食事から帰って、また寝た。
朝までには少しはのどの痛みは取れているか、熱は下がっているかと期待しながら、布団の中で、時間を過ごした。次の日も、一日寝ることに専念した。
うれしいことに昼の食事も夕食も時間の時間も起きるたびに前よりはよくなっているような気がした。
ずいぶんよくなってきたので、明日はもう大丈夫だと思って最後の布団に入って寝た。 金曜日には電話で起こされたので、今日はそんな失敗はするまいといつもよりちょっと早い時刻に起きて、センターに行った。ところが、門の入り口がしまっていた。
なんと、その日は日曜日だったのだ。
何度も寝たり起きたりしていたので、ちょっと時間の感覚もなくなっていた。やっぱりなんだかおかしかったのだ。思考力がなくなっていたのだ。
しかし、おかげで、1日儲かった。あと1日休んで、しっかり休養することができる。
玄関のたたきが凍り付いている。
たとえ道路が凍っていても、「そこのけそこのけ車が通る」
朝から「コツコツ………」と、いつもと違った音が聞こえていた。
ここは駅が近く、列車の入れ替えなどがあり、 時を選ばず、やたらと大きな音がするので、少々の音には慣れているが、いつもとは違った音だ。
窓から下を覗いたら、建物の入り口のコンクリートのたたきを何かとがった物で、たたいている。
入り口が凍り付いて危ないので、氷を剥がしているのだ。 センターに行くために外に出ると、あらゆるところが凍り付いてツルンツルン。
道路を横切るとき、車はいつもよりはスピードを落としているとはいえ、やっぱり、中国式運転は変わらない。
道を渡るのは命がけだ。車が途切れるのを待った、慎重に渡ってセンターに行った。
そして、今朝も少しの命を長らえることができた。
5月16日に掲載された救助隊の活動状況。
成都から都江堰までは平地であるが、その先は急に山岳地帯となる。
映秀から、先は遙かな道である。
まだ、パンダ研究所にも救助隊は届いていないようだ。
現在、このブログでは今年(2008年)の1月の起きた中国中南部の大寒波について書き始めたところだったが、四川大地震のニュースが飛び込んできた。多くの人命を失い、大変痛ましい結果となっているが、5月16日現在、まだ、進行中である。
震源地のブンセン県には現時点で救助隊が入り込んでいないところがたくさんある。私が2005年に行った地域もそうである。そのときの写真があるので紹介し、一刻も早く、被害者の方々が救われるように願いたい。
私の目的は2段目の地図にある大姑娘山(タークーニャン山)に登るためであった。この山は花が美しいところで有名で、日本人にも大変人気があるところである。したがってたくさんの人がこの地域に行っているはずである。
上の地図と下の地図を照らし合わせると現在(5月16日現在)救助隊が入っているのは映秀付近までで、まだ、この山地のほんの入り口であることが分かる。衛星電話で臥龍にあるパンダ研究所に問い合わせたところ、パンダは無事だとの報告があったそうだが、まだ、孤立したままのようである。
私は地図の右下から入って映秀を抜けて、谷川沿いをバスで上り、パンダ研究所で見学し、さらに奥へ行き、峠を越えて登山口である日隆に行った。
成都は四川省の省都三国志の舞台になった古い町だ。
この町では大きな被害は出ていない。
都江堰は2200年前の戦国時代に、秦国の蜀の太守、李氷とその息子が造った
水利施設である。それは世界遺産にも登録されており、街の名前にもなっている。
写真は李氷親子像。この街までは平地である。
都江堰はいくつかの学校が潰れるなどして大きな被害が出た。
手軽に乗れる三輪自転車タクシー(都江堰にて)
都江堰を過ぎると山岳地帯に入る。映秀の街は山岳地帯の入り口の街である。
その日の映秀の街は至って穏やかであった。現在、90%の建物が倒壊しているという。
5月16日現在、この街ですら道路が開通していないようだ。
活気のある映秀の街のようす
四川大地震で亡くなられたたくさんの方々のご冥福を祈るとともに、被害を受けられた方々および、その地域が一刻も早く復興されることを心からお祈りいたします。
我々は映秀から左に折れて川沿いにさらに山岳地帯に入っていった。
このあたりも救助隊はまだ、到達していないと思われる。
私たちの目的地は登山口である日隆。まだまだ遙かな道である。
映秀から奥へ離れると、道もさらに悪くなり、川の流れが、急になる。
昨日あたりからのニュースでは各地に地震湖ができて、崩壊が危ぶまれるという。
この勢いで水がたまると怖い。
山間に似つかわしくなく、盛んに火をたく工場があった。
中国ではあちこちに煉瓦工場を見かけるが、これは何か金属を溶かす工場のようだ。
谷あいの学校らしき建物。授業中であろうか、人影は見えない。
5月12日もこうだったのだろうか。
四川大地震で亡くなられたたくさんの方々のご冥福を祈るとともに、被害を受けられた方々および、その地域が一刻も早く復興されることを心からお祈りいたします。
山はますます険しくなっていく、谷あいにダムも造られている。今は多くのダムにひびが入って危険な状態だという。
今日のニュースではこの奥のパンダ研究所では職員が5人亡くなったと言っていた。研究所までは、連絡員が到着したようだ。
この道かどうかは分からないが、山崩れを恐れながら、山を捨てて歩いて下りてくる人がいるらしい。大規模な救助隊はまだ、山奥の方に行く余裕はなさそうだ。

ダムの建設現場が見える。
いつ崖崩れが起きるか分からない。地震湖はこういうところにできそうだ。
ほぼ出来上がったダム。もう、水はたまっているころだろう。
地震に耐えられただろうか。
ダムの建設に伴って、空中を飛ぶような道が造られる。
大丈夫だったろうか。今回の地震はマグニチュード8に訂正された。
今から見れば、なんと危なっかしい道に見えるのか。
2005年8月この景色を見たときは
なんと平和そうなのどかな町だろうと思ってシャッターを押した。
地震が起きた今、崖崩れは大丈夫だったか、橋はこわれていないだろうかと、心配になる。
すぐ上流にはダム場建設されている。
四川大地震で亡くなられたたくさんの方々のご冥福を祈るとともに、被害を受けられた方々および、その地域が一刻も早く復興されることを心からお祈りいたします。
パンダ研究施設方面へ向かう道は険しく、悪い。いつどこで、崖崩れが起きてもおかしくない。おまけに渋滞する。
今日になって、四川省内の全地域と連絡が取れたとのニュースが入った。
やれやれだが、だから、復旧が進んだというわけではない。おそらく、確認のための人員が入っただけであろう。まだ、生き埋めになっている人が8000人いるという。
パンダ研究施設方面へ行く道。案の定渋滞に巻き込まれた。
ここの渋滞はおきまりだ。トウモロコシ売りのおじさんも現れる。
大きなトラックが落ちて仰向けになっている。これは震災の様子ではない。
悪路をたくさんの荷物(このあたりでとれたキャベツ)を積んで猛スピードで走っていたのだ。
運転席は完全に潰れていた。
四川大地震で亡くなられたたくさんの方々のご冥福を祈るとともに、被害を受けられた方々および、その地域が一刻も早く復興されることを心からお祈りいたします。
写真は四川地震の震源地のあるブンセン県の山奥のパンダ保護センターである。この周りの山々にパンダが住んでいるという。実にかわいいパンダの姿を見ることができる。
ここでは5人の職員が亡くなられたという。職員も減り、パンダのえさも供給できないなら大変だろうと思っていたら、リンゴや笹竹などとりあえずのえさも到着したそうだ。パンダは2頭が逃げ出したという。昨日は地震後初めての映像も入ってきたが、何事もなかったかのように遊ぶ姿が愛らしい。
職員が亡くなられたことは残念だが、パンダについては「やれやれ」というところだ。
谷あいにある保護センター
じゃれる姿は本当にかわいい。熊の仲間だろうが、どう猛ではないのか。
赤ちゃんは保育器で育てられる。
木に登っていたパンダは振り落とされただろう。
四川大地震で亡くなられたたくさんの方々のご冥福を祈るとともに、被害を受けられた方々および、その地域が一刻も早く復興されることを心からお祈りいたします。
パンダ保護センターを過ぎると、急に坂道がきつくなる。バスはあえぎながら登る。まもなくバスは峠に着いた。そこは標高4523メートルの巴朗峠。私にとって初めて体験する高度だ。バスの外に出ようとすると、なんだか足がふわふわ浮いて、雲の上を歩いているようだ。息苦しくはないが息がスカスカする。気分はちょっとほろ酔いの感じで悪くはない。深呼吸をしても、あんまり肺にたまった感じがしない。空気が薄く、高山病の一歩手前なのだろう。
峠の看板には4523メートルと書いてある。
どこから都もなく、馬に乗って若者がやってきた。彼は無事でいるだろうか。
4000メートル以上にしかないという幻の花ブルーポピーもそこにはあった。
せっかく登ったが、登山口はこの下。
気の遠くなるような坂道、高度差1200メートルを下っていく。
大姑娘山の登山口、日隆に行くにはどうしても越えなければならない峠なのだ。
四川大地震で亡くなられたたくさんの方々のご冥福を祈るとともに、被害を受けられた方々および、その地域が一刻も早く復興されることを心からお祈りいたします。
大姑娘山登山口の町、日隆。いつまでも豊かな緑と水に豊かな人情に恵まれた平和な町のはずだったが………。ここに住んでいる人たちは今はどうしているだろう。町の様子はどうなっただろうか。食料は?けが人の治療は?4500メートルの峠を越えて救援隊は来たのだろうか。どうしようもない思いはつのる。
以前は宿泊施設も何もなかった村に大姑娘山ブームに乗ってにぎやかになっていく。
日隆の村一番の交差点。豚が戯れている。
新しくホテルが建てられている。
1階は鉄筋コンクリートの柱で支えるが2階は切石積みの壁造りだ。
村唯一の小学校。12日月曜日の3時前は授業中だったはず。
逃げられただろうか。
高地順応のための登山で出会った親子。男の子は、助かっていたら7歳ぐらいのはず。
下に見えるのは日隆の町。この明日からは向かい側の山に登った。
笑顔のすてきな村長さんの奥さん。元気でいてくださいと、祈るばかり。
この家(ホテル)に泊まった。
四川大地震で亡くなられたたくさんの方々のご冥福を祈るとともに、被害を受けられた方々および、その地域が一刻も早く復興されることを心からお祈りいたします。
情報によれば、この子も無事だったはずだ。
大姑娘山登山の間中、私たちの前になり、後になりして山の清掃と
私たちの安全登山を確認してくれていたこの姑娘も無事だったのだ。
5月18日付の共同通信ニュースで日高の町が被害が少なかったことと死者が出なかったことが報道されていたそうだ。
四姑娘山自然保護区管理局の日本人大川健三氏 の報告によるものとされる。
取り越し苦労ではあったが、とにかく、いい報告で終われることを大変うれしく思っている。
ニュース本体はこれ
http://office.kyodo.co.jp/feature/china_earthquake/2008/05/post_62.html
こちらは本人の報告書だ。震災後の写真もある。
http://www.earthworks-j.com/info/shisen.html
それから、私と同じように日隆の震災を気にしておられる方がいらっしゃったことも分かり、大変うれしかった。
http://kazahanajisan.cocolog-nifty.com/blog/2008/05/post_2493.html
この町には被害はあったはずだが、まずは身の安全が確認できて、大変よかった。
今後の復興を心からお祈りします。
四川大地震で亡くなられたたくさんの方々のご冥福を祈るとともに、被害を受けられた方々および、その地域が一刻も早く復興されることを心からお祈りいたします。
登山口の町日隆が無事だったことを知って安心した。
四川大地震関係のブログは一応ここで終わり、日隆の状況が分かり次第その報告をする予定だったが、せっかくここまで見て頂いた方々に、大姑娘山の写真を紹介したい。
そして、多くの日本人の方々がこの美しい町と山を訪れて頂いて、町の復興に役立って頂きたい。
大姑娘山とは実は四姑娘山のうちで一番低い山だ。それでも5100m程度。
向こうに見えるのが残りの三姉妹の山々だ。
地震で山の形も変わったかもしれない。
六〇〇〇メートル以上あってとても私には登れない。
この山の魅力の一つは幻の花ブルーポピーを間近に見れること。
ブルーポピーは実は三色あって、黄色いブルーポピーも見ることができた。
荷物を運んでくれた馬の親子が休んでいる。
日本では大変貴重なエーデルワイスをここでは馬や牛が喰んでいる。
被災者の方々の今後のご安全とご多幸を祈って、ここで本来の記事に戻る。
このあたりの冬の風物詩????
路面も凍結
これでは重たい。枝が垂れ下がるわけだ。
欠席者も目立つが、自分たちで面接面接形式で会話練習
道を渡ったところの木を見ると、木の枝が、折れんばかりにたれ下がっている。 よく見ると、木の枝にいっぱい氷が着いていて、その重みで、垂れ下がっているのだ。
雪は降らなかったが、水分が木に付着して氷となったようだ。 と言うことは、朝方の気温は0℃にはならなかったが、それ以前に冷え込んでいて、 冷え切った木の枝に発生した霧が付着したのだろう。
ともかく、これはこのあたりの冬の風物だ。やっぱり、九州の冬より寒いのだなと自分で納得した気分になってセンターに行った。
ところが、黄先生は「こんな光景は初めて見た。バスが来ないので、1時間かけて歩いてきた。歩く人はみんな転んでいる。私も1回転んだ。」と、一気に話した。
センターには研修生が半分ぐらいしか来ていなかった。
ここは郊外の農村部から1時間以上かけて来る者が多く、バスが動かなくて、遅れているらしい。
これでは授業にはならない。
実は私は熱もずいぶん引いたし、のどの痛みも鼻水もずいぶんよくなったが、今度は声がかすれて出なくなっていた。
そこで、これ幸いに今日ばかりはしゃべるのを極力減らして、自主練習をさせることにした。
1日中の欠席者もいたが、研修生達が大体そろったのは昼頃だった。
思えばこれが寒波の第一波だった。
うっすら雪が積もった。このあたりでは年に1回ぐらい雪が積もることがあるという。
雪がつもっても凍り付いても、バイクに乗って行くのだー。
9時半始まりを告知する掲示板
道路の凍り付きは、日、一日と厚くなり、まともに歩けない。木々の垂れ下がりは日を追ってひどくなり、枝が折れる場合もある。
そんな日が、4,5日続いた後、その日は朝から、うっすら雪が積もっていた。前日のまでの氷が溶けきらないうちに雪が積もり、道路は最悪の状態になっていた。
おまけに、粉ぬか雨のようなものが降っていて、それがさらに凍り着き、道路はクチャクチャで大変だ。
テレビでは30年ぶりの寒波が来たと言っているそうだ。
その日から当面の間、授業にならないので、授業開始時刻を遅らせて、9時半始まりになった。帰りも4時までの授業となり、これじゃあ、勉強にならない。
日本への出発の時期は大体決まっているし、こういうことで、勉強の時間が減ると、結局日本語をあまり話せないまま、日本に行ってしまことになる。
これは何よりも研修生達にとって、大変不都合なことだ。


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