「うみ」(2)
2006年10月4日分からは中国で書いています
瀬戸内海から見た四国。見えるのは讃岐富士?研修生はこのあたりの工場に来る。
「うみ」は言葉が簡単だと書いたのは実は日本人にとっての話である。中国人は「ハヒフヘホ」の発音が非常に苦手である。特に「ヒ」は「シ」と発音しがちである。だから、「海はシろいな」「シが沈む」となる。また、あまりにも発音を矯正しすぎると奥歯の横から息が抜けたような「キろいな」「キが沈む」となってしまう。
歌はメロディがあるので一つ一つの音の高さも長さも決まっている。だから、発音の指導では口の形や息の出し方だけの指導に集中できる。それで指導がしやすいのだと思う。しかし、昨年の男子研修生の場合も同じように日本の歌で発音を指導したが、中途半端な指導に終わった。結果的に3ヶ月の指導を経た後も、「広い」は「白い」であり、「日が沈む」は「死が沈む」であった。
今年は全くの白紙の状態から教えることができたし、副社長の考えで、最初の指導を普通は中国人とコンビで教えるところを全部日本人の私にまかされたので、十分に時間を取ってきちんと指導することができた。そこで私が選んだ曲がこの「うみ」である。単純なメロディでゆったりしたテンポ。
1ヶ月半の繰り返しの指導で、中国人が最も苦手とする「ヒ」についてはほぼ克服できたと思う。もちろん他の発音では様々な課題はあるのだけれども………。
「瀬戸の花嫁」
2006年10月4日分からは中国で書いています
四国研修所で日本語研修に励む先輩研修生(2月)
「瀬戸の花嫁」は滄州外経女子研修センターの研修生たちの愛唱歌である。ここで学ぶ研修生のほとんどは四国の瀬戸内地方の工場で食品加工の実習をする。
研修生たちは同じ村や親戚関係のこの研修に参加した経験者から情報を得て応募してきている。日本での研修が楽しかったこと、日本の受け入れ先の会社の人々が優しかったこと………。経験者からはこんな話をよく聞く。
「瀬戸の花嫁」では瀬戸内海の小さな島から別の島に住む好きな人のところにお嫁に行く日のことを歌っている。幸せを求めて瀬戸地方に旅発つ。ちょっぴり寂しいながらも、大きな夢を持っている。 「瀬戸の花嫁は」この娘たちのために作られたのではないかと思えるくらいだ。この研修センターの「校歌」とも言える。
童謡4曲を学び、日本語の感覚が少し育った頃、一般の日本の歌を教えるとき真っ先にこの歌を教えたのはこういうゆえんである。
七五調
2006年10月4日分から中国で書いています
ただいま、こちらからのメール送信不可状態。ご迷惑おかけします。18日帰国予定。

日本の歌の歌詞はほとんどが七五調
日本の歌の歌詞は七五調や五七調のもの、あるいはそれに準じたもの(以後七五調という)が多い。俳句だって短歌だって七五調そのものだ。なぜだか知らないが、とにかく七五調に言葉を乗せると、日本語のリズムとメロディにぴったり。調子がいい。むしろそういうことを体感的に知った祖先が必然的に七五調の詩歌を作った。更にそれが洗練され、エッセンスだけを取り出して独立させたものが短歌や俳句になったものだと思う。
今までに教えた曲は全部七五調である。意図的に選んだわけではなく代表的な日本の歌を選べばそうなるのである。
七五調の日本の韻律には独特の読み方がある。私はこの独特な読み方で読めば日本語のリズム感とメロディ感を獲得できると思う。そこで、日本語を大体読めるようになったこの時期に、今まで教えた歌の歌詞を七五調の読み方で暗唱させ、合格したら次へ進めるように個人指導することにした。その結果、中国語の独特ななまりから少しでも脱却させるようにしたい。私の帰国は迫ってきたが、それまでに教える12曲の日本の歌を歌詞カードなしで歌えるようになるならば、一石二鳥である。はたして、日本人でもはっきり覚えている曲を12曲歌いなさいと言われてすぐに歌える人は多くはないのではないかと思う。
軍事訓練
2006年10月4日分からは中国で書いています

先輩たちのふりを見て体操を学ぶ

ただひたすら行進の練習。その向こうは教官と唐ゴマを楽しむ研修生
新しい研修生が入ってきた。といっても、正式には研修生になる前の軍事訓練を受ける人たちだ。しかし、同じ寮に住み同じ食堂で同じ時間帯に食べる。しかし、彼女らは日本語の研修は受けない。無事、3週間の軍事訓練を終えたとき、初めて滄州外経の研修生となる。
軍事訓練で入ってきた当初は廊下で出会っても何の愛嬌もない。日本の若者と同じだ。挨拶もしないし、愛想もない。ところが、3週間の研修を終えて、晴れて本科研修生になるころにはまるで人が変わったようににこやかに挨拶をし、すれ違えば立ち止まって最敬礼をし、建物や教室の入り口で私たちを見かけるとサッとドアを開け、「どうぞ」と身振りをつけて、案内するようになる。
いま、軍事訓練が始まって1週間、最近「ニーハオ」と挨拶するようになった。私の担当の研修生は9月に滄州外経に来て、最もいい季節に軍事訓練を終えたが、新しい研修生は零下に冷える校庭でただひたすら、整列・行進を繰り返している。軍事訓練と言っても集団行動訓練だ。
担当は軍服を着た軍人(現役かどうかは知らない)であるが、正式に資格を持った人が正式にやっているのには違いない。日常の生活指導(掃除や整理整頓、食堂での態度、後かたづけ………)も担当している。研修生にとっては怖い存在だ。(実は優しい人だと言うことは研修生も知っているのだが。
薬
2006年10月4日分から中国で書いています。

箱は違うが中身は同じ 下は香港で販売しているもののようだ
小波(おば)さんから、「勝田さんから頼まれていた薬はゲットできたか」というメールが来た。いま、メールの送信ができない状態なので、返信ができない。それで、ここで報告しておく。事前に李老師に聞いたら、「見たことがある」という。
そこで、先日の日曜日、街に出たときに薬局に寄った。「これ、ありますか。」とドキドキしながら空き箱を見せた。奥から出してきたのは箱が違う。急に心配になったが、箱に書かれている文字をよく読んでみると、薬の名前、製造会社、効能など、同じだ。持っていった箱は香港の販売店から出しているもののようだ。こちらは本家、北京から販売されているものだった。
具体的には何の薬かよく分からないが功能は「益気養血」、主治は「気血不足」などと書いてあるので血液を正常化する薬なのだろう。沢山の漢方成分が入っているようだ。3箱で、79元(約1200円)。日本で買えば10倍ぐらいの値段がするという。こんなことならおやすいご用だ。
日本語専門学校
2006年10月4日分からは中国で書いています

テープカット キレイどころはみんな研修生

アトラクションは滄州外経お得意の唐ゴマ
昨年から今年にかけて滄州外経は目を見張るほどの発展を続けている。昨年末に現在の女子校舎が完成し、更に今年の春には同じ敷地内に4号棟が完成した。昨年、街の中心地の本社の脇の建物を買い取り、男子校舎を建設中だ。来年3月には完成する。
そういえば、滄州外経の伊社長は最近滄州市の最も成功した人の一人として。テレビで放送されたばかりである。
滄州外経の研修生は着実に増え続けているし、日本の会社や受け入れ組合との関係も極めて良好だ。受け入れ先の社長さんたちは目が行き届いており、研修生の一人一人をよく知っている。研修生たちはまた日本に行きたいという者が多い。そして、そういう人たちが日本に留学できるように、この女子校舎内に日本語の力をつける日本語専門学校を作ることになった。そして、先日、その開校式が盛大に行われた。
主賓は四国の受け入れ組合の理事長である加ト吉食品の加藤社長、それに滄州市の書記長である。
中国の書記長は共産党書記長のことで、市長を任命する権限を有する最も偉い人だ。また、中国の「市」は日本で言う県と同じレベルにあり市長はいわば「県知事」だ。
加藤社長はいわば日本冷凍食品界の大御所も言うべき人物、たたき上げの社長だ。
下をクリックするとテレビ画像が見られるかも‥‥‥‥
http://www.cangzhou.gov.cn/moves/cznews/2006/11/16504.shtml
日本語専門学校(2)
2006年10月4日分から中国で書いています

受け入れ校の学校案内

日本語専門学校の開講を伝える新聞
日本で3年間の研修を受けたあと、もう一度日本へ行きたいという研修生が多い。私が知っている人の中にもそういう人が複数いる。それほど、日本での研修が気に入ったと言うことである。しかし、制度の主旨からそれは出来ない。そういう人たちの夢を実現させるためにこの日本語専門学校が作られた。
具体的にはこうだ。まず、希望する研修生を1年課程でこの専門学校で日本語を習得させる。ここで、日本語検定2級または1級の資格を取れば四国の上戸学園が入学を許可する。上戸学園は高校と短大等を併設しており研修生の中国での学歴に応じて、高校も短大も受け入れるという。更に日本での留学期間は関連の食品加工組合の工場でアルバイトができるという。更に奨学制度や学資免除制度もあるという。
日本から帰ってきた研修生達はまとまったお金を持っている。向学心のある研修生達はそのお金でこの日本語専門学校に入り資格を得た後、自力で日本の学校に留学することが出来るのである。
研修生の中には高校に進もうと思っても行けなかった人、大学など夢のまた夢という環境で育った人がほとんどだ。それが自力で日本語を勉強し、自力で留学できるという夢のような話が現実にあるのだ。また、今担当している研修生達の様子を見ていると、その勤勉さ、忍耐力から見てこのような道を進むことを勧めたいような研修生も数多くいる。
滄州市で初めての日本語学校となるこの学校はユニークな学校だ。
この学校ではそのうち、一般の中国人の入学も認めるという。
下記は新聞記事
http://www.shikoku-np.co.jp/kagawa_news/education/article.aspx?id=20061201000131
日本語専門学校(3)
2006年10月4日分から中国で書いています

中国内に20000人の従業員を有する加ト吉の加藤社長の挨拶
日本語専門学校開校式での来賓の挨拶の中に、「この専門学校を経て、無事日本留学を終えた研修生は中国内の日系企業や合弁企業で期待される」という話があった。
ここ滄州では滄州外経関係者以外では日本人に会ったことはない。日本食の店もないし、日本食の食材店もない。昨年、正月は滄州外経の日本人教師では私一人が正月を滄州で過ごしたが滄州市500万人の中で日本人は私一人ではないかと思ったものだ。しかし、こんなところでも、日本との合弁会社は33もあるそうだ。
先週の日曜日(12月3日)に行われた外国人に対する日本語検定試験の受験者は世界で50万人以上、そのうち中国は21万人を占めるという。中国では空前の日本語ブームだ。滄州外経でも何人かの先生が北京に受験に行った。中国の日本関連企業では日本語が出来る中国人を大変優遇している。
ところで、来賓の挨拶の中の「この専門学校を経て、無事日本留学を終えた研修生は中国内の日系企業や合弁企業で期待される」という言葉の意味は大きい。
例えば、今回の主賓である加藤社長の加ト吉食品では中国内に20000人の従業員を要する工場を持っているそうだ。例えばここで、日本で研修と留学を終え日本語検定で保証されている実力のある勤勉で、日本語が堪能な滄州外経出身者を優遇しないわけはない。
「涙そうそう」
2006年10月4日分からは中国で書いています

「涙そうそう」を歌う研修生たち
日本人は沖縄の歌に淡い郷愁を憶える。以前、「花」がヒットしたが、歌謡曲の雰囲気を取り入れた沖縄の旋律が心地よい。それに比べると「涙そうそう」は伝統的な日本の歌謡曲に沖縄の雰囲気をとり込んだ曲だ。
私はこの歌はいい歌だと思いながらも、テレビから流れる曲をちょっと聴いた程度で、落ち着いてと聞いたことがなかった。でも、いつか自分でもじっくり聴きたい、出来れば研修生にも教えたいと、思っていた。
この滄州外経に来て間もなく、一緒だった丹後さんが研修生に「涙そうそう」を教えるという話を聞いた。そこで、わたしはその曲を頂いていた。
丹後さんは私よりうんと若いがこの道10年以上のベテランだ。直接授業を見せてもらったことはないが、滄州外経のビデオの中で授業風景が出ていた。ほんの5秒ぐらいのカットであったが、その表情、身振り、手振りの全てから優しい雰囲気が伝わる。これだけでいい先生だと直感した。きっと、この雰囲気の中で、たくさんの中国人たちにたくさんのことを教えてきたのだろう。現在は河南省の大学で教鞭をとっているはずだ。
「涙そうそう」を始めた。李栄指導員は日本にいた頃、よく聴いたという。聴いただけで涙がにじむと言っている。研修生も1回聴いただけで気に入ったようだ。沖縄の音楽は中国の影響を強く受けているので、彼女らにとっても淡い郷愁があるのだろう。
「一休さん」
2006年10月4日分から中国で書いています

おなじみの一休さん、中国の若者の心にしっかり根付いている
晩の自習の時間に教室に顔を出すと、研修生の一人から質問があった。
「イーシュー」のなんの、と言っている。書かせてみると「一休〜」と書いた。ピンと来るものがあった。李栄指導員に入ってもらって聞くと、やはり、「一休さん」の歌を知りたいと言っているのだ。李栄指導員によると日本で先輩の研修生たちが歌っていたそうだ。でも、自分は良く知らないという。
実は5ヶ月目になる上田さんのクラスでも一休さんの歌を知りたいと言ったので上田さんが調べて、歌詞を教えたということである。私も教えてもらおうとしたが、「待てよ」と思いインターネットで、「一休さん 好き好き好き好き」で検索したら下記のサイト
http://ihung.net/2006/10/05/cong-ming-de-yi-xiu/
が、出てきて、原曲を聴くことが出来た。クリックしてみてください。懐かしい歌が聞こえると思います。
「一休さん」(2)
2006年10月4日分から中国で書いています。

音楽がなり始めると研修生たちはいっせいに頭クルクル‥‥‥を、 始めた
授業の始め、「今から『あっ、』と驚くような音楽を聴かせるよ」と言って「一休さん」を聴かせた。
ところがはじめの「一休さ〜〜ん」の声が聞こえるや否や悲鳴とも言うべき歓声が上がった。「イーシューガー、イーシューガー」と、大騒ぎだ。みんな、両手の指を左右の上にかざしてくるくる回しながら歌う。「ガー」はお兄さんという意味だ。
テレビアニメ「一休さん」はこの研修生達が幼い頃ころ大人気の番組だったそうだ。10年〜15年前のことであろう。全ての体験が直接的に身に付き、心に残る頃だ。
中国の「一休さん」はせりふもテーマ曲も中国語に吹きかえられていたそうだ。最初の「好き好き好き好き」の部分は「ジグジグジグジグ」だそうだ。どういう意味か聞いたら、意味はないという。単なる言葉遊びのようなものだそうだ。そういえば、この歌は日本語でもほとんど、言葉遊びだ。
研修生は「好き好き‥‥‥」の意味が分かって大変喜んでいた。
はたちの心に新たによみがえったこの歌は更に印象深く心に染み入ったことだろう。もちろん、この歌も暗誦して憶えさせるつもりだ。
あと1週間
2006年10月4日分からは中国で書いています

自ら応援団長になった元気な娘なのだが‥‥‥
研修生は19歳から23歳までで平均20歳ぐらい、しかし、見た目は中学生か高校生かと思えるくらい若く、気持ちはもっと若い。2つのクラスとも大変すなおで、純情である。
3組の授業の時、一番前に座っている研修生が始めからちょっと泣き顔だったのに気付いていた。一番大きくて一番元気な娘(こ)だ。どうしたことだろうと思ったが、あんまり聞くのも悪いのでそのまま見過ごして授業をしていた。
そのうちに渡航に必要な書類の写真を撮るというので、約半分の研修生が呼び出された。その娘は残り、私は授業をそのまま続けた。
始めは昨日は健康診断があったし、今日は写真撮りがあり、近づいた(と、言ってもまだ大分先のことなのだが)渡航を控えて心が不安定になっているのかなと思ったが、どうもそうではないらしい。そのうちに、あちこちで泣き始める声聞こえてきた。
任期が迫っている。これまでに、研修生たちから、まだずっと教えてください、という声を何度も聞いた。最後まで、教えたいのだが、任期が決まっているのでそうは行かない。私の滞在期間はあと1週間、最後の週になったので寂しくなったのだ。
そのうち、しめっぽくなったので、誰かが「歌」。といった。それで歌を歌うことにした。また、「涙そうそう」と声がしたので、何気なくそれをかけた。それがいけなかった。「涙そうそう」がこんな時に歌えるはずがない。ただただグスグス言いながら、夏川リミの歌を聴くだけに終わった。
涙に弱い私も涙を隠せなかった。研修生の一人が、ハンカチを持ってきた。私は照れ隠しに涙を拭いてハンカチを絞るふりをした。ちょっと笑いが起こったが、焼け石に水だ。
このままではいけないと思い、楽しい曲を歌わせようと「一休さん」をかけた。ところがそれがまた悪かった。火に油だ。こんなときにこの曲を歌えるはずがない。
あと、5日間、この調子では一体どうやって授業をするのか。
掲示物
2004年10月4日から中国で書いています

真剣に試験を受ける男子研修生

ひらがな練習では中国人独特の間違い方がある
急に男子の試験監督と口頭試験に行くことになった。男子校舎は安いホテルに間借りをしてしている。
昨年今頃は男子校舎で教えていた。そのころ私が残した掲示物がそのまま残っていた。そのときも五十音をはじめから教えたが、はじめに付いた文字の癖はなかなか直らない。だから、最初が肝心と思って作った掲示物だ。 たとえば「あ」はよく間違う文字である。中国人は不思議にも最後の丸く回すところを途中できってしまう。 この間違いを2回犯した人は記録し、ドアのところに張った。3回目にまた間違ったらドアのところで文字に向かって「済みません。今度からきをつけます。」と言わせる。4回目の間違いは大変だ。「どうもすみません。」と言って自分のゲンコツで頭をゴツンとやらせる。実際4回目まで間違った人はいなかったけれど、何とかならぬかとの工夫の産物だ。
この教室も来年3月に新しい男子校舎ができるとともに消えていく。
日記
2006年10月4日分からは中国で書いています
漢字だらけの日記、知らないからひらがなで、という訳にはいかない

文型、単語は限られているが、…………
研修生は毎日、日記を書く。漢字ばかりがぎっしりと詰まったノートは感動ものだ。11課を終えた後、2日に1回は日本語で日記を書くことになった。
わずか、2ヶ月の勉強、そして語彙数もそれほど多くないのにこんなに書けるのは不思議に思える。習ったことは確実に憶えている。朝8時から夜8時半まで、授業時間は大きな声で、真剣に勉強する。休み時間や日曜日の自由な時間も教室で自習をしている。 彼女らには大きな目的がある、大きな夢があるのだ。
荷物
2006年10月4日から中国で書いています。

「わっ」とよってきて、荷物を開け始めた
荷物を送りに郵便局に行った。
車の準備が出来るまで、送る荷物をロビーのテーブルに置いて待っていたら、食事を終えた研修生たちが入ってきた。「何をするのですか。」、「どこへ行くのです。」かとしつこく聞く。「もう、帰ります。」「うそでしょう。」「これは何ですか。」、とちょっと会話を楽しんだあと、研修生達は勝手に荷物を開け始めた。唐ゴマと子供の靴が出てきた。思い出のあるものばかりだ。
唐ゴマ(11月9日分参照)は研修生たちと一緒に練習したが、最終的には研修生達にかなり水を開けられてしまった。あと2回ぐらい滄州外経に来れば研修生並みに上手になるだろう。でも、日本人先生の中では私が一番出来るようになったそうだ。この唐ゴマは私が熱心にしていたので会社からもらったものだ。実はもらった後は、日記をつけたり、コンピュタが壊れたりして、忙しくなり、ちっとも練習できなかったのが申し訳ない。
次に出てきたのが子供の靴(11月23日分参照)だ。ブログを見た小波(おば)さんから「そんなに安いのならサイズの違うものをいくつか買ったらどうですか」とメールが来たのでそれもそうだと思い、あとで3足補充したものだ。もちろんすぐには使わないようなサイズの靴は船便の荷物に入れた。
ここでは、宅急便など便利なものはないから郵便局から送る。9kgで220元はまあまあの値段だ。去年は、DVDは荷物チェックではねられたが、今回はOKだった。見落としだろう。
最終日
2006年10月4日分からは中国で書いています

研修生が一番気にしているのは会話の口答試験だ。
そこで、最後の授業はその実技をした。右は「恋人は何人いますか」と、
意地悪な質問をする研修生

研修生たちがお別れ会をしてくれた。
私もお返しで下手なギターで「女一人」を歌った。
ところが途中でみんなグスグスと泣き出すもんで、
私は手元ガクガク、声はメロメロで、歌にならない歌となった。
授業は今日で終わり
今回もまたたくさんの人の助けを借りて、充実した2ヵ月半を過ごすことが出来た。
この滞在中に、日本で、外国からの研修生を不当に働かせていることが明るみにされ問題になった。そのために規制が強化され、真面目に中国から送り出している人々や暖かく迎え入れている日本の人々、そして何よりも人生をかけて純粋に日本へ渡ろうとする研修生達に大きな影響を与えようとしている。大変残念なことだ。
私は明日北京に行き、翌朝日本へ帰る。そして、間もなく、中国の別の町でこの仕事をすることになっているので、このブログはその街からの報告に引き継ぎたい。
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たびたびのご訪問有難うございました。
ブログ再会の節はよろしくお願いします。



